フィンセント・ファン・ゴッホの言葉2
アメシストが芸術を適当に紹介する Part5 フィンセント・ファン・ゴッホ
僕らは互いに熱心に手紙を書かねばならない
僕の若い時代は陰鬱で冷たく不毛だった
僕は自分の持っているミシュレの本などを全部破ろうとしている。最近の僕には、この世には牧師と教師以外に職業はないように思われてきた。
フランスの歴史家ジュール・ミシュレ
この手を焔に入れていられる間、彼女を連れて会わせてくれ
すぐにではないが程なく、僕の内部で愛情が枯死するのが感じられた。そしてそのかわりに一種の空虚、計り知れない空虚が訪れた。
しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いておいた鉛筆を取り直し絵に戻るのだ、と自分に言い聞かせた
きっと人々を真に傾聴せしむるに足るだけのものを、携えて帰って来るに違いない
僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う
作品の中に思想を表現しようとすることは、画家のつとめであると僕には思える
自分の目の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う
その農民たちの絵から、ベーコンの匂いや煙やじゃがいもの湯気が感じとれたら成功だ
この絵は手の労働を語っているのであり、いかに彼らが自分達の糧を稼いだかを語っている
僕は農民が畑を耕すように、自分の絵を耕しているのです
僕は大聖堂よりは、人間の眼を描きたい。大聖堂がどれほど荘厳で堂々としていようとも、そこにはない何かが、眼の中にあるからだ。
自分の肖像をうまく表現できたら、他の人々の肖像も描けると思うから
僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。
ウジェーヌ・ドラクロワ、レンブラント・ファン・レイン
「ミレーの農奴は、自分が種を蒔いているその大地の土で描かれているかのようだ」これはアルフレッド・サンシエの言葉だが、まさに真を衝いた名言だ
ジャン=フランソワ・ミレー
例えば、ミレーの『種まく人』は畑にいるただの種まく人ではなく、むしろその魂なのだ
その花が太陽に顔を向け続けるように、信心深い人はキリストに関心を向け続ける
君と同様、あれから何日かは、いつものような仕事はできなかった。この日々は忘れることはあるまい。
結局のところ、本当にそう思うのだが、僕は色彩の音楽家であるよりも、靴屋でありたいのだ
気がふれ病気になりながら、それでも自然を愛する人間がいる、それが画家というものだ
神の言葉を種まく人に、僕はなりたいと願っている
福音書だけでなく聖書全体の根底または基本的真理の一つは、暗闇の中に差し昇る光だ