【哲学者】三木清(みききよし) 理論上の誤謬はまた究極において実践上の成功を齎らし得るものではない
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読書の時間を作るために、無駄に忙しくなっている生活を整理することができたならば、人生はそれだけ豊富になるであろう。読書は心に落着きを与える。そのことだけから考えても、落着きを失っている現代の生活にとって読書の有する意義は大きいであろう。
昔から同じ教訓が絶えず繰り返されてきたにもかかわらず、人類は絶えず同じ誤謬を繰り返しているのである。
そのうえ自分の専門以外の書物から、専門家が自己の専門に有益な種々の示唆を与えられる場合も少くないであろう。
人は常に源泉に汲まねばならぬ。源泉は常に新しく、豊富である。原典を読むことによって最も多く自分自身の考えを得ることもできるのである。
多く読み、多く考え、そして出来るだけ少く書くこと、それが著者の倫理である筈である。しかし読むというにも沢山の違った仕方があるのであって、そして良く読むというには多くのエスプリが必要なのである。
善い思想が必ずしも真なる思想であるわけでなく、危険な思想が必ずしも偽なる思想であるわけではない。
先づ必要なことは、哲学に関する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲学的精神に戯れることである。これは概論書を読むよりももっと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲学者の書いたものを読まなければならぬ。
多くの人々は人生の問題から哲学に来るであろう。まことに人生の謎は哲学の最も深い根源である。哲学は究極において人生観、世界観を求めるものである。ただその人生観或いは世界観は、哲学においては論理的に媒介されたものでなければならぬ。