高浜虚子(たかはまきよこ) 大も無限であれば、小も無限である


ブロンズちゃんの書籍紹介 Part52 高浜虚子と河東碧梧桐



俳句は寡言の詩である。言い尽さざる詩である。そのために、解するものに依って如何にも解されるものである。


客観写生という事は花なり鳥なりを向うに置いてそれを写し取る事である。自分の心とはあまり関係がないのであって、その花の咲いている時の模様とか形とか色とか、そういうものから来るところのものを捉えてそれを諷う事である。


俳句は自然(花鳥)を詠い、また自然(花鳥)を透して生活を詠い人生を詠い、また自然(花鳥)に依って志を詠う文芸である。


「歌を忘れたカナリヤ」という童謡かなにかがありますが、この頃の俳句は諷詠を忘れた俳句が多いようであります。調子が佶屈で言葉が難かしくって、我々には判らない句が多いようであります。「歌を忘れたカナリヤ」ではなくって諷詠を忘れた俳句とでも申しましょうか。そういう俳句の横行するのは不愉快です。


俳句は最も簡単な詩型であるということがその特色の一つである。寡黙に近いということがその特色である。寡黙ということは、最も大きな人間の力の表現である。
俳句は全く沈黙の文芸であるとはいえない。しかし、多く言わず少なく言う文芸である。少く言いて多くの意を運ぶ文芸である。叙写はすくなくって多くの感銘を人に与える文芸である。


私共は常に、自然の、偉大で創造的で変化に富んでいることに驚嘆するのであります。その自然に比べると人間の頭は小さくて単調なものであります。


狭いはずの十七字の天地が案外狭くなくって、仏者が芥子粒の中に三千大千世界を見出すようになるのであります。