夕立に洗はれた静かな山の木々の中で人間に帰り度いと思ひます

日本文学


ブロンズちゃんの書籍紹介 Part110 梶井基次郎『闇の絵巻』



私は街に出て、とある果物屋へ入つた。そして何も買はずに唯一顆の檸檬を買つた。そしてそれがその日の私の心を慰める悲しい玩具になつたのだつた。


一體私はあの檸檬が好きだ。レモンヱロウの繪具をチユーブから搾り出して固めたやうなあの單純な色も、それからあの丈の詰つた紡錘形の恰好も。


美しい容姿と、その容姿に相応しい快活な、そして温順な心を持つてゐた。――形も心もそれは可愛らしい生徒であつた


生命がある以上は各自の天稟の仕事がある筈だ　それに向つて勇往邁進するのみだ。生命を培ふといふ事が万一仕事を枯らすといふ事を意味するなら死んだ方が優しだ。罪の多い生活をつないで行つて自然に死ぬまで待つ位ならぶつーとやるかずどんとやる方がいい。


天職を見出でない男の悲哀は何に由つて希望を見出してゆくことが出来るか。決して空ではない希望。