最も卑俗なものを最も悲劇的なものに高めねばならぬ、そんなことしなくていいから!!

言葉というものは終わらせる機能しかない。はじめる機能などありはしない。表現されたときに何かが終わっちゃう。その覚悟がなかったら芸術家は表現しなければいい。一刻一刻に過ぎてゆくのを誰もとめることはできない。しかし言葉が出たらとめられる。

 

 

奇蹟の到来を信じながらそれが来なかったという不思議、いや、奇蹟自体よりもさらにふしぎな不思議という主題を、凝縮して示そうと思つたものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題になるものだ。

 

 

私はやたらに時間を追ってつづく年代記的な長編には食傷していた。どこかで時間がジャンプし、個別の時間が個別の物語を形づくり、しかも全体が大きな円環をなすものがほしかった。私は小説家になって以来考えつづけていた「世界解釈の小説」を書きたかったのである。

 

 

そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。

 

 

日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであろう

 

 

文学者の簡明な定義を私は考えるのだが、それは人間の言葉が絶対に通じ合わぬという確信をもちながら、しかも人間の言葉に一生を託する人種である。この脆弱な観念を信じなければならぬ以上、文学者は懐疑主義者になりきれない天分をもっている。その代わり、もう一つの別の危険がある。彼は平凡以上に美しいものがないことを、言葉の最高度の普遍性以上に美しいものがないことを、信じたい誘惑にとらわれるにいたる。彼は常套句の美しさを知り、常套句をしか信じなくなる。すると彼は凡庸に化身してしまう。獄中から出たワイルドは凡庸になった。そして黙った。

 

 

ところで三島君、僕はね、日本の文学は、アメリカ南部の文学と、どこか非常に似ているような気がするのだけれども、どうかな。読めば読むほどそういう気がする。繊細すぎる感受性、それによる生きづらい魂、そういう要素が共通なのじゃないかな。ただし、アメリカの場合は、日本のよりもっと直接的で、日本の方はより間接的だという違いはあるけれども。