【短編の名手】芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ) 人生は一行のボードレールにも若かない


ブロンズちゃんの書籍紹介 Part49 芥川龍之介『戯作三昧』



彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。


誘惑に勝つたと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。


天命を知っても尚、戦うものだろうと思うですが。


前者を疑うのが自分の頭を疑うのなら、後者を疑うのは自分の眼を疑うのである。


始め筆を下した時、彼の頭の中には、かすかな光のようなものが動いていた。が、十行二十行と、筆が進むのに従って、その光のようなものは、次第に大きさを増して来る。経験上、その何であるかを知っていた馬琴は、注意に注意をして、筆を運んで行った。神来の興は火と少しも変りがない。起すことを知らなければ、一度燃えても、すぐにまた消えてしまう。……


頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々としてどこからか溢れて来る。彼はそのすさまじい勢いを恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐えられなくなる場合を気づかった。そうして、かたく筆を握りながら、何度もこう自分に呼びかけた。


根かぎり書きつづけろ。今己が書いていることは、今でなければ書けないことかも知れないぞ。


しかし光の靄に似た流れは、少しもその速力をゆるめない。かえって目まぐるしい飛躍のうちに、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲って来る。彼は遂に全くその虜になった。そうして一切を忘れながら、その流れの方向に、嵐のような勢いで筆を駆った。